インターネット上で過去に話題になったことが何故今になってあたかも「新たに発見された事実」であるかのように流布してしまうのか。どうして過去からの繋がりがそこで切断されてしまうのか。過去の記憶との断絶。インターネットに決定的に欠けているのは端的に言えば「歴史」、だ。インターネット上に存在したであろう様々なドキュメントは無くなってしまっている場合が多い。インターネットはその時その時のインスタントな情報の流通には威力を発揮するけれど、過去の情報の蓄積には長けていない。インターネットの大衆化が日本で急速に進むのはWindows98登場以降の1998年以後だけれど、1998 年時点での情報でさえ手に入らないものは多い。情報の「ストック」と「フロー」の差異がインターネットの登場により曖昧になり、コンテンツが完成形の「モノ」ではなく永遠に未完成な「コト」となったとしても、この問題の根本解決にはつながらない。
そこには個々人の内的な歴史はあるかもしれないけれど、現実社会の「歴史」に対応し得る大文字の「歴史」は存在しない。何しろその「歴史」を語るべき主体というものがそもそも存在していない。「歴史」の欠如を穴埋めすることのできる主体の欠如。それは結局のところインターネット上におけるマス・メディアの不在という問題にも繋がるのだろうけど、もしかしたら誰もそのような「歴史」など必要としていないのかもしれない。
Internet Archiveはそういったデータのストックとして存在はしているけれど、これがインターネットの過去を蓄積する仕組みとしてきちんと機能できるとは残念ながら言うことはできない。問題なのは、こうしたデータベースの蓄積が結局のところ「歴史」になるのであり、データベースの欠如は「歴史」の欠如に成り得るという観点を如何にすれば導入できるか、という点にあるのではないだろうか。私はgoogleが特定のサイトを検索結果から削除する行為は営利企業にとって合目的だと考えているけれど、インターネット上ではデータベースの蓄積そのものが「歴史」を形成するという観点からすると、googleの行為は『1984年』における真理省(Ministry of Truth)と何ら変わらない、という点を危惧する。それは、googleの責任というよりも、営利企業がインターネット上における大文字の「歴史」を形成するデータベースを作成するのは不可能に等しいという限界を露呈しているに過ぎない。では、一体誰がこのデータベースを構築し得るのだろうか。
想像の共同体(Imagined Communities) - 雑記帳 (via pdl2h) (via otsune)歴史は大きな物語の上につくられる。とすると、これからの歴史は Internet Archiveや Googleの中に眠って、データベース的に参照されるのみか。